英語学習における英文法の重要性は早期教育のあり方とも密接に関連しているが,さらにその先,つまり中学・高校の英語教育と英語学習においても英文法の重要性が正しく認識されているどころか,コミュニケーション重視の掛け声のもと,文法軽視,さらには文法無視の風潮がますます勢いを増している。
かつて「変形生成文法*1」なるもの(ある種の妄想)が猛威を振るったころは,伝統文法の柱の一つでもある「文型」が目の敵にされて,公的な英語教育の場から追放されたが,最近は文法全体が丸ごと片隅に追いやられている。それどころか,文法をなおざりにして,高校では英語の授業は全て英語で行ない,中学でも英語で行なうのが原則だとされている。普通の中・高生を対象に英文法を英語で体系的に理解・定着させることなど出来るはずもなく,文法軽視・無視を前提にしていることは明らかである。これを推進しているのは文科省の役人と一部の自称「英語の専門家」だが,財界の要請と,それを受けた政権与党が強力にプッシュしていることは言うまでもない。
「イマージョン理論*2」なる,一般性に著しく欠ける的外れな方法論がもてはやされたり,「英語を教えるのではなく,英語で教える*3」などいう,俗耳に入り易いものの,少し考えれば論理的に成り立たないことは誰でも分かる粗雑な主張が大手を振ってまかり通っている。大学名への言及は控えるが,大学に籍を置く,英語教育の「専門家」と称する一部の人間たちの愚かしさはほとんど信じられないレベルであり,絶望的な気分になる。
*1 変形生成文法に関しては,かつて虜になった元信者の方々は「ある種の妄想」という言い方には強い抵抗を覚えるかもしれないが,少なくとも私自身は,「普遍文法」や「言語獲得装置」なる概念が遠からず行き詰まるであろうことも,外国語としての英語の習得には役に立たないことも,初めから「直観」的に把握していたつもりである。しかし私の真意は,時流に乗って教育行政を左右する危険性を指摘することであり,変形文法の開祖チョムスキー氏に対する反戦平和運動家としての評価はまた別である。
*2 母国語習得と類似の環境を人為的に作り出すものだが,一般性がないことは言うまでもない。新興宗教の集団生活や自己啓発セミナーの合宿生活とどこか共通するものがあり,英語(外国語)の習得のために払う犠牲とコストがあまりにも大きい。
*3 対象となる者がすでに英語(外国語)を一定レベルまで習得していることが前提であり,対象がそのレベルに達していない場合,これほど効率の悪い方法はない。すでに相当な運用能力を獲得している母国語(日本語)で説明すれば10分足らずで理解出来ることが,60分以上費やしても,結局は十分に理解出来ないままで終わる。これを大学レベルで行なう場合,英語以外の専門知識と専門技術の習得は半ば放棄されるに等しく,いわゆる so-called「グローバルな人材」の育成にもつながらない。英語の早期教育とグローバリズムで取り上げた奈良先端科学技術大学院大学・佐藤匠徳教授の談話----まず懸念されるのが授業の質の低下だ。TOEIC 満点の学生や海外留学経験者でも「専門分野を深く掘り下げて,微妙なニュアンスを使い分けて喧々諤々(けんけんがくがく)と議論をおこなえるレベルからはほど遠い」のが実情で,現状は授業の中身が薄っぺらになり,大学の授業が「英会話学校化」している----と,国立情報学研究所・新井紀子教授の「人口知能開発プロジェクト-ロボットは東大に入れるか」を参照。
ところが,ネットで「(英)文法の重要性/文法軽視/文法偏重」等で検索してみると,文法不要論は完全に少数派であり,むしろ例外にすぎない。すでに高度な英語力を獲得している人から,その域に達するために努力している人まで,語学に真剣に取り組んでいる人たちはみな,外国語の習得における文法と語彙の重要性を強く主張している。英語の「読み書き」はもちろん「聞く話す」においても,文法を抜きにしては相当なレベルの運用能力を身につけることは不可能だという点で,ほぼ一致している。つまり国(時の政権党と文科省)が打ち出している方針は,何の説得力もない単なる思いつきにすぎないのである。これに振り回される小・中・高(・大)生こそ最大の被害者であり,加害者は確たる根拠もなしに教育をいじくり回す一部の人間である。
私がこの時期あえて文法の重要性を指摘するのは二つの理由による。ひとつは,阿佐谷英語塾の今年の高三SAクラスの生徒たちは昨年に続きほぼ全員が高三からの新規入塾生であり(なぜそうなったのかについては今は触れない),ほぼ全員が著しく文法が弱い。阿佐谷英語塾は高一と高二の段階では重要な文法事項を単元別にかなり徹底的に学習する。もちろん文法のための文法ではなく,英語を正確に読み書くための文法である。その代わり,三年になると,文法を独立して扱うことをしない。つまり高三の新規入塾生は文法をきちんと学習しないまま受験を迎えることになる。もちろん読解や英作文を通じて欠落している部分を埋めてはいくが,準動詞・関係詞・時制・仮定法・比較等を単元別に正確に身につけていく時間はない。それでも高度な英語長文読解力養成を謳う塾としては,相当な読解力を養うことにはほぼ成功しているし,生徒は読解力を支えにして,正誤問題のような典型的な文法問題でもそれなりに得点出来る力を身につけている。
問題は早稲田・慶應・一橋・東京外語等で出題される本格的な自由英作文である。合格答案を書くためには,一定レベル以上の文法・構文の知識が身についていないと対処できない。相当な進学校に通い,中には中学から大手の有名塾・予備校に通っていた生徒もいる。どこで躓いたのかは個人差があるが,はたして文法軽視の風潮とは無関係だと言い切れるだろうか。加えて今年の生徒は全員国語が弱い。小論文と重なる部分がある自由英作文には決定的に不利である。国語力の低下については,センター試験の妥当性を含めて別のところで論じるつもりだが,母国語の力の低下は英語の早期教育と密接に絡んでくることは言うまでもない。
英文法の重要性に触れるもうひとつの理由は,阿佐谷英語塾のホームページへのアクセスの中に必ず「英語と日本語(日本語と英語)の違い」という検索語が含まれていることである。その真意は人によって違うと思われるが,少し,あるいは或る程度,英語を勉強した段階で,日本語と英語の文法の違いを意識するようになったものの,まだ英文法をきちんと学習・習得する段階まで達していない人たちではないだろうか。こういう人たちに文法不要論を刷り込み,「理屈は抜きにして,とにかく暗記すればよい」といったアドバイスをするのは,仮に善意に基づくものであっても,先々のことを考えれば犯罪行為に等しいと言わざるをえない。