阿佐谷英語塾塾長のメッセージ

ハーバードの学生は東大生より優秀か


(7.30.2012 更新)

話題になっているマイケル・サンデル教授のハーバード「白熱教室」のビデオを観た感想です。著書「これからの正義の話をしよう」(Justice: What's the Right Thing to Do)は書店でざっと立ち読みした程度ですから,内容に関してあまり深入りするつもりはありませんが,私が興味を引かれたのはハーバード大学と東京大学で行なわれた実演(講義)に対する学生たちの反応です。

サンデル氏が取り上げた譬え話は両大学で少し違っていましたが,暴走車両とアフガンのアメリカ兵士の話は共通していたように思います。前者はお馴染みの譬え話しを教授が少し脚色したようですが,後者は実際にあった話だそうです。話の前提を意図的に単純化して賛否を問い,その論拠を問うのが氏の正義論(氏の言う政治哲学)を展開する手法であっとしても,私は強い違和感を覚えました。詳しくは触れませんが,暴走車両の話は現実の線路工事や車両の走行方向の変更等を無視した設定そのものに著しく無理があり,後者の例に至っては,タリバーンと通じていたかどうかは最後までわからない非武装の民間人を殺すことが正当化されると考えるなど,理解することができません。教授の信奉者からは激しい反発が予想されると思いますが,他人は自分を映す鏡であり,他人を評価することは自分を評価することですから,私としては自分の正直な感想を述べているにすぎません。

サンデル氏が常に数(量)の比較で善悪を論じる単純な功利主義者だとは思いませんが,教授の誘い(挑発)に乗って直ぐに賛否の手を挙げる学生たちの素朴な,というよりむしろ幼い表情には驚きを禁じをえません。特にハーバード大学での講義にその印象が強く残りました。いくら学部の一,二年生だとしても,小学生や中学生ではないのです。実際の東大生によるものであるかどうかはわかりませんが,ハーバード大学(アメリカの大学)の学生は日本の高校生レベルだという意見には説得力があります。確かに母語である彼らの英語には日本人は容易に太刀打ちできませんから,英語の習得は必要です(このことについては後述します)が,彼らの発言の中味自体は日本の高三生のレベルには達していないでしょう。

前提条件に明らかな不備や誤謬のある意見に簡単に賛否を表明する短絡的思考のアメリカ人学生は,サンデル教授の仕掛けたトリック(罠)の格好の餌食だと言えるでしょう。氏がハーバードきっての人気教授である理由は,氏が優れた研究者であるからというよりも,エンターテイナーとしての話術と資質を備えていることと,聴講する学生のレベルがあまり高くないことでしょう。氏はテレビの情報番組の司会者としても優秀な人物なのかもしれません。教授の守備範囲は,せいぜい経済格差(貧富の差)はどこまで許容されるかという程度のことではないしょうか。

大学教授といえども,エンターテイナーであることは必要な条件かもしれませんが,学生が本来あるいは潜在的に持っている知に対する好奇心を刺激し誘発することで彼らの知のレベルを高めることこそが大学に籍を置く研究者の責務であり,優れた研究者の証であり,学生にとって最高のエンターテインメントではないでしょうか。東大の場合,教授陣に教育志向よりも研究志向が強いから教育が疎かになるなどという説は単なる詭弁にすぎません。

教授陣が本気で自分の知識と思索と叡知をぶつければ,たとえ高度なものであっても,まったくの独りよがりでないかぎり,少なからぬ東大生にはそれを受け止めるだけの能力があるはずです。東京大学がサンデル教授を招聘して特別講義を設けた真意は容易に透けて見えます。東京大学の授業をせいぜいあのレベルに持っていきたいのでしょう。知の創造の場だなどと言いながら,秋入学等の話題作りで現在のポジションを維持することと基本的には同じ発想ではないでしょうか。

私はある時期から東大受験生の(大)多数に東大を志望するこれといった理由がないこと,つまりこの分野を専攻するためには東大の或る学部・学科がベストだからといった選択理由がないこと,ましてや誰々教授の指導を受けて研究したいからといった理由はほとんど聞いたことがないことに違和感を覚えてきました。普通に考えればとても無理だと思われる受験生----これといった得意科目がない生徒----まで東大を目指し,その理由はほとんどの場合,本人の自発的なものというよりも周りの人たちの強い勧めによるものだからです。とはいえ,人間はみな大きな可能性を秘めていますから,絶対に不可能ということはありません。大学の場合,教授陣に勝るとも劣らず,優秀な学生同士が相互に与え合う刺激や影響が重要ですから,この目的に適うのはやはり東大が一番だと考えると,東大人気・東大志向の高まりはそれなりに納得できました。

ところが2010年の東大入学式の式辞で,濱田現学長が,いわゆる5月病に触れて「今まで学んだことは全て忘れてきてほしい」と言ったことに私は仰天しました。周知の通り東大は,私大はもちろん国立大学の中でも二次試験の科目数が多く,受験生にとっては大きな負担になりますが,この負担をなくせば東大が他大学に比べて特に難関である理由はなくなります。しかも個々の科目には難問・奇問の類が少なく,また科目数が多いということは,逆に一部の苦手科目を他科目でカバーすることも可能であり,なおかつ大半の受験生が家庭の経済力を背景に,中高一貫の受験校に通いながら,高1はおろか早い人は中1から塾・予備校に通っているのですから,一定レベルの資質と意欲があればけっしてそれほどの難関ではないはずです。にもかかわらず学長があえて5月病に言及したのは,そういう学生がむしろ多数派だからでしょう。この少子化の時代,東大は定員の削減に踏み切るべきでしょう。「数は力なり」的発想でそれをしないから,水膨れ状態を生じ,東大に合格することが人生最大の目標となり,入学の時点ではすでに燃え尽き症候群の学生が生まれているのではないでしょうか。

今まで学んだことは全部忘れてきてほしいとは何たることでしょう。文系だけに限っても,論述主体の社会や国語で身に着けた知識や力は大学での勉強と研究の基礎・出発点になるはずです。このことが,出口よりも入り口のほうが難しいと言われる日本の大学の(唯一)最大のメリットのはずです。それとも東大は,全部忘れてほしいような内容を単なる苦役として受験生に課しているのでしょうか。同じ2010年の夏にサンデル教授の特別講義を設けたのは偶然の一致であるはずがありません。(以下次回に続く)

2011年度の式辞で,福島の復興を最大の関心事として取り上げたのは,どの大学も同じでした。その後,濱田学長(総長)は東大生全員を一年間海外留学させるという構想を口にされ,また,女子学生の比率を現在の二割から三割に増やすため,女子受験生専用のオープン・キャンパスを設けるというアイディアを公にされました。後者の考えは現在も変わっていないようです。さすがに前者の構想は,その非現実性に気付いて撤回されたようですが。
しかし,東大学長ともあろう人が,ほとんど思いつきにすぎないレベルのことを言い出されたのには,また驚きました。そもそも専攻分野に関わりなく,まして本人の意志に関わりなく一年間海外留学させるという発想がどこから出てくるのか。単位として認定できる受け皿を3000人分も確保出来るのですか,いくら東大でもまさか全員国費はないでしょう。国民が納得しません。言葉の壁を乗り越えられない学生は,まずお決まりの付属の語学学校行きになりますが,それも履修単位として認めてもらえないと,帰国後「留年」ということになります。そういう学生が国費ということはないでしょうから,高額の費用を負担して望まない海外留学を強いられ,下手をすると五年かけて学部卒業ということになります。海外留学に特化した大学や学部がやる分には構いませんが,一学年3000人の国立総合大学が考えることではないでしょう。

そして今年になって打ち出したのが「秋入学」です。初めは入試も時期をずらして夏入試・秋入学と思った人が多かったようですが,マスコミでも大々的に取り上げられ,ギャップ・タームなる空白期間付きの春入試・秋入学だということが分り,賛否両論出てきました。政府・財界・現野党自民党等からはいち早く支持の声が聞かれますが,キーワードは国際競争力,中味はほとんどありません。自民党の案には,自衛隊の体験入隊という「面白い」ものもあります。東大生といえども徴兵逃れは許されないでしょう。肝心の東大学内では理系を中心に反対論が根強く,仲間入りを呼びかけられた他大学も当初のご祝儀相場を離れると,一部の大学を除いてあまり乗り気ではないようです。
メリット・デメリットという以前に,そもそもの目的がよく分りません。世界標準の秋入学にして英語で授業をし,留学生の数を増やして国際競争力を付け,東大の世界ランキングを上げて日本の東大を世界の東大に変え,その存在を磐石にするといったところでしょうか。半年の空白をボランティア活動や短期の海外留学に当てて五月病から立ち直らせ,心機一転,秋から勉強ということのようですが,理系の先生方からすればこの半年の「浪費」が研究のレベルダウンにつながるということでしょう。この学長は女子受験生専用のオープン・キャンパスという「面白い」アイディアを思いつく人ですから,「市場」の動きに敏感な企業経営者かもしれませんが,本物の研究者や教育者ではないでしょう。小中高を含めた日本の学制改革といった遠大な構想は初めからなく,関心事は東大のポジション維持だけでしょう。

大学がこういう方向に流れると,学生は必ずスポイルされます。現在の東大は,濱田氏に引き合いに出された南原繁総長の頃とはまったく異質な存在です。今の東大生の代表的なイメージはスマートな利己主義者といったところでしょうか。ただし見かけに反し,総じて英語が弱いのは事実です。その理由は大学でまともな英語教育をやっていないからです。これではハーバード大学の学生と「英語で」議論したら負けるのは当然です。
東大出身の首相は途絶えて久しく(補足-鳩山由紀夫氏を忘れていました。氏は東大卒で,米スタンフォード大のドクターでしたね。言動にぶれの激しい人で,元々一国の総理の器ではなかったので員数に入れるのを忘れていましたが,米国の名門大学もあまり当てにならないようです),諸々の深刻な社会問題の場で東大生の顔がほとんど見えません。かつての全共闘の「東大解体」に懲りた大学(文部省)が徹底した学生愚民化策に成功した結果だとしたら,お見事と言うほかはありません。優れた政治家,役人,企業経営者,そしてついには研究者さえ枯渇すれば,社会はいずれ分裂・崩壊という深刻な危機を迎えます。すでにその瀬戸際に来ています。東京大学を特集した 7/7の「週間東洋経済」で斉藤孝明大教授が「東大生になることは社会的責任を負うことだ」と発言しています。現状から遊離した過剰なエリート意識が少し気になりますが,全共闘世代から一回り以上若い斉藤教授が学生時代に教養課程で講義を受けた文系教授の名前を見ると,なるほどと思います。全員を等しく評価するわけではありませんが,現在の小物教授陣とは少しレベルが違います。やはり人が人を育てるのです。

ハーバード大学のサンデル教授の新著 "What Money Can't Buy.-The Moral Limits of Markets" が翻訳出版されています。相変わらずの手法と内容で,「お金を払って買う」気にはなりませんが,氏は周回遅れで「新自由主義=市場原理主義」批判という本音を明かしたのかもしれません。大学経営を「市場」の論理に委ね,国際競争という名のグローバリズムに乗ることで活路を見出そうとする濱田氏に比べれば,周回遅れとはいえ,サンデル教授の市場主義批判のほうにまだ研究者としての真っ当さを感じます。ただ濱田氏は学長という立場にあることを割り引いて考える必要があるでしょう。ご本人にはその自覚がないまま,「崩壊の時代」という時代の役回りを演じているだけだからです。主演・演出:濱田学長,出し物は「悲喜劇」です。

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