「英語の習得と国語力の低下」についての私見です。
センター試験まですでに一週間を切りました。受験生にとっては重要なイベントです。阿佐谷英語塾の生徒にも,センターの得点が入試全体の帰趨を決める生徒がいます。これから最後の個別センター対策をする生徒もいます。彼らはもちろん,全国の受験生諸君の健闘と幸運を心から祈っています。
出題傾向の変更の可能性は常にあり得ますから,仮に今まで受けてきた模試や過去問とは問題構成が違っていたとしても,けっして慌ててはいけません。時間配分に注意し,配点の低い問題に時間をかけ過ぎないことが肝要です。それ以上のアドバイスは今さら不要でしょう。一応予想問題的なこともやりますが,当たる確率自体はきわめて低く,類題をやることで類推が働くことが狙いです。したがってホームページで公開することはしません。
以下に述べることは,入試直前のこの時期には受験生本人は読まないほうが良いかもしれません。短期間に対策できることではないからです。
私自身はセンター試験に以前ほどの緊迫感を感じられなくなりました----もちろん対策の手を抜くつもりなど毛頭ありませんが----その理由は,ひとつはセンター試験自体がマンネリ化したことかもしれません。一方,生徒が英語はすでにそれ相当の得点を見込める力をつけていて,むしろ他教科,特に国語の得点が大きなポイントになっていることが影響しているように思います。
どういうわけか言及されることはあまりありませんが,ある時期までは,国語は良くも悪くも最大の安定科目であり,出来る人と出来ない人の差がかなりはっきりしていました。それが最近では最大の不安定科目となり,文系はもちろん,センターの配点の高い国立理系でも入試の合否は国語の出来不出来にかかっているという人が少なくありません。もっとも,少し見方を変えると,一部の人を除いて相当な低値安定であり,大半の受験生にとって,そこからいかに抜け出せるかが勝負の分かれ目になっているとも言えるでしょう。
こうした現象の厳密な分析は別の機会に譲りますが,母国語の読み書きの能力の低下は要するに言語能力の低下であり,これは思考能力の低下をも意味します。前回触れた東大受験生の学力低下に象徴される,真のエリートの不在(または著しい不足)による政治・行政の劣化と社会全体の危機の深化の本質もここにあるのです。
この程度の問題意識も持たずに,英語の習得を最大の教育課題として掲げたところで,外国語(日本語)の習得など必要としない,英語を母語とする英米人には永久に勝てないどころか,外国語(思考の枠組み)の習得と実用化に多大な時間と労力を費やす結果,思考の中味のレベルではさらに太刀打ちできないセミリンガル(疑似英語脳)を大量生産するだけになりかねません。英語で発表される研究の分野でも,言語がもっぱら理論を記述する記号・符号として働く面が強い理数系の分野では世界に通用する研究が少なからず行なわれている反面,言語表現そのものが思惟と思考の表出となる社会科学の分野ではかなり遅れをとっているのは,ひとつはこうした背景があるからです。それにしても文系研究者のレベルは低すぎますが。
何十年かけてでも英語を完全に母国語化し,ついには米国の一州になる覚悟だというなら話はまた別でしょう。まあ中国の一省になるよりはましかもしれません。英語の塾にしては変わったことを言うと思われるかもしれませんが,母国語であれ外国語であれ,言語能力とは,読解力とはどういうことかを考える一助となれば幸いです。しかし,もしかすると,時すでに遅く,最難関大学受験生はおろか,彼らを教える立場の人間でもこの程度の話が通じる人はすでに圧倒的少数派なのかもしれません。日本の将来はどうなるのでしょう...。