この数年,大学入試の自由英作文や小論文のテーマの主流は,英語の早期教育や英語の公用語化であり,原発の再稼働,経済格差,成人年齢,外国人(移民)労働者の問題等であったが,「先端的」な大学の今後の出題テーマとして予想されるのは,人工知能とロボットの開発だろう。
7月10日付けの塾長のメッセージ「自動同時翻訳&自動同時通訳と英語教育」で次のように述べた。
近接する未来において最も急速に進歩し,最も急激な変化を社会にもたらす科学技術は何か。それが人工知能(AI=Artificial Intelligence)
とロボットの開発であることにまだ気づいていない人はさすがに少数派かというと,必ずしもそうではない。それどころか,むしろ気づいている人のほうが少数派だと言ったほうが正しいだろう。科学技術の恐さは,その進歩に内在する自己目的化と価値盲目性にあると言ってよい。人類に真の幸福をもたらすか否かはあくまでも結果に過ぎないのである。大部分の人間は,抗いようのない事実をきつけられて初めて事態の重大性に気づくが,時すでに遅しである。
しかし,この程度の指摘では,やはり実感が沸かない人が(大)多数というのが実際のところだろう。そういう人は,動画を含めて「人工知能」で検索してみてほしい。技術的特異点(Technological Singularity) という聞き慣れない言葉が出てきて,戸惑うかもしれないが,誤解を恐れずに単純化すれば,人工知能(の総和)が人間の知能(の総和)を超える時点のことである。一般的には2045年が想定されているが,今からわずか30年後である。それより以前,2025年(わずか10年後)に到達すると考える研究者もいる。遅くとも21世紀中,最も遅い予測でも 100年以内と言われている。何を以て人工知能(コンピュータ)が人間の知能を超えると考えるか,内実は様々である。人工知能が自らをプログラムするレベルに達する,意識と自我,感情や感性を獲得する,人間による制御が不可能となる,ロボットが人間を支配する,さらには人類を破滅させる,等の予測がなされている。
さすがに,この10年のうちに人工知能(AI)が人間を超えるのは,正解のある問題に解答を出すことであり,正解のない問題を考えることは人間固有の能力だろう。前者はあくまでも知能のレベルであり,後者は知性のレベルと言ってよい。言い換えると,前者はコンピュータ(数学)の領域であり,後者は哲学の領域である。いずれにしても,人が行なっている仕事の多くが,10年後にはロボットによって代替されることになるだろう。その範囲の予測は定かでないが,多くの人間が現在の職を失うことになるだろう。人工知能が進化すること,技術的特異点を迎えることに強い危惧を抱いている代表は車椅子の物理学者スティーヴン・ホーキング博士であり,期待と同時に懸念を表明しているのはマイクロソフトを率いたビル・ゲイツ氏である。
自然言語の処理は人類に残された最大の難問であり,現在はまだ機械(コンピュータ)による自動的な処理はそう簡単に実現するものではない。しかし人工知能の発達が技術的特異点に達してもなお外国語の学習が必要だと考える人は,現在はまだAI(人工知能)が不得手とする想像力の点でもすでにAIに遅れをとっていると言わざるをえない。自然言語の処理で人工知能が最も苦手とするのは文脈の理解とも言われるが,逆に言えば,それぞれの言語の基本的な文法を逸脱しない正確な表現を用いることで,異なる言語間の変換もより容易になる。要するに,正しい母国語の習得と使用こそが効率的な自動翻訳&自動通訳,つまり米語や英語に依存しない普遍的な国際コミュニケーションの前提ともなるはずである。英語の塾でありながら,いまさら英語の早期教育や英語の公用語化を強引に押し進めることに異議を唱える真意を,上述の内容からご理解いただければ幸いである。各自の必要に応じて,英語を(本格的に)習得することの価値を否定するものではまったくないが,10年後,20年後に英語の価値が飛躍的に高まるなどと主張する英語の教師・タレントは,仮に単なるツールとしての英語だけは出来たとしても,常識と教養,そして最も大切な人間的能力である想像力に著しく欠けている。
なお,日本の大学と米国の大学の違いについて,国立情報学研究所の新井紀子教授が適切な評価をしているので,紹介したい。ただし,氏のコメントは大学だけでなく,日本の行政や企業にもそのまま当てはまるものである。念のために付け加えると,文系から理転して数学(コンピュータ)の世界に生きている氏の文系人間に対する評価は,一般のビジネスマンや我が子の幸せを願って英語の早期教育に力を入れるお母さんたちには当てはまる部分が少なくないとはいえ,いささか一面的過ぎることを指摘しておきたい。世の中には数学的思考の出来る文系人間もいるはずである。